ショップチャンネル
今野 亮平さん
カリスマゲストの部屋
  プリザーブドフラワー/フラワーデザイナー
今野 亮平さん    <7/11更新>
   
 
プロフィール

東京生まれ・東京育ち。グラフィックデザイナー、1級フラワーデザイナー、(社)日本フラワーデザイナー協会講師、専門学校講師。株式会社“ベル・フルール”専務取締役。
アメリカで学んだグラフィックの中に自然美を表現するデザインを特徴とし、デモンストレーションやセミナーも多く開催している。
日本フラワーデザイン大賞2006年「ウインドーディスプレイ部門」第1位のほか、コンテスト受賞多数。2008年、コロンビア大使より感謝状授与。

 

2008年、東京・銀座にプリザーブドフラワー専門店、スクールをオープン。
趣味はサッカーとアート巡り。 ショップチャンネルデビューは2007年。

【お客様へのメッセージ 】
いつもありがとうございます。
自分がデザインに込めた気持ちが、画面を通してお客様に伝わることを何より願って、いつも出演させていただいております。番組でも申し上げていますが、自分が作り上げたものによって、お客様のライフスタイルが少しでも豊かになってくれたら、とても素敵なことだと思います。
ご自宅用でも、ギフトとしても、きっとお客様の空間は明るく華やかになるはずです。それを眺め、感じるお客様自身の心もまた、豊かになってくれるはずだと信じています。プリザーブドフラワーは生花でありながら、メンテナンスをしなくても“枯れない”、永遠の花といっていい存在です。2〜3年は水やりせずに美しく咲き続けますから、ちょっと元気がないと思ったとき、疲れているときなどに見て和んだり、どんなときでも心を癒してくれると思います。また、大切な方にプレゼントとしてプリザーブドフラワーを贈る方が増えています。余計なメンテナンスが必要ないので、相手を意識したワンランク上のギフトとしても人気です。どれも喜んでいただくひとつのコミュニケーションのようなものかもしれませんし、お客様との間にはそんなシンパシーを感じます。
ぜひ、お花のある空間をお楽しみください。

 
ブランド商品一覧

お花は、どんなシチュエーションでも、誰もが喜んでくれるもの。飾ることで空間を変え、心に潤いを与え、見る人の世界観が広がると思います。
 
【高校時代はサッカー、大学時代はバックパッカー】

高校時代は、サッカー三昧の生活でした。
小学校のときからやっていたサッカーは、世界中で行なわれている誰もが知るスポーツであり、お互いのゴールをねらうシンプルなゲーム内容です。
そこにいたるチームプレー、自己努力から得られる結束に、ずっと惹かれ続けてきました。高校のサッカー部は、年間で10日ほどしか休みがないほど厳しく、トータル100人もの部員がいたチームで、私が在籍した時代は、東京都のベスト8まで勝ち残るなど、突出して強いメンバーが揃っていたように思います。しかも、部員は成績もよくて、イケメン揃い! 当時の精神力や鍛錬は、私の中で今も生きていると思っています。
実は、現在もサッカーをやっていますが、いまだにうまくなっている気がします(笑)。
大学は国際関係学部という、アジア情勢や文化などに強い学部に入学しました。
全国から集まるいろいろな友達との出会いからパワーをもらい、そのパワーに乗っていくような気持ちで、1〜2年のときはバックパッカーとして、インドやネパール、インドネシアなどを旅するようになりました。勉強の一環というより単純に興味津々で、アルバイトでお金を貯め、夏休みや春休みなどの長い休暇を使って1ヶ月くらいふらっと行ってくるのです。

アジア圏ではタイを拠点に動くことが多く、タイでチケットを求めてからインドへ行ったり、またタイに帰って今度はベトナムへ、といったように、常に動いていた気がします。
そのたびに、各国の文化に刺激を受け、あるときは現地の方と友達になり、一緒にいろいろと行動を共にしました。
海外に出てみると、新しい価値観に気づかされました。客観的に、日本や、そこに住む自分を見ることができ、「日本で暮らす自分の状況は恵まれているな。」と感じました。同時にものすごくポジティブになり、自分の未来に開けている無限の可能性を固く信じ、「何でもできそうだぞ!」といった気持ちになったものです。
そうして、「何かやろう!」といった思いがふくらみ、自分の中である意味、化学変化が起きてきたのでしょう。
英語があまり好きでなかった私が、世界中の人と普通に思いを伝え合うため、世界共通語の英語を勉強しようと思いたち、大学3年生の後期からアメリカへ留学することになりました。
 
【アメリカ留学はひとつの分岐点】

留学先はオレゴン州でした。
初めて足を踏み入れた時、透明感ある風景の色彩や、すっきりとした青空に感動し、強い決意を感じたことを今でも覚えています。所属したクラスでは、勉強は充実してはいましたが、午後2時ころに授業が終了してしまいました。そこで時間を有効に使おうと、大学のサッカー部に入りました。チームには日本人は1人だけでした。最初はパスもまわしてくれず、なかなか溶け込めず、カルチャーの違いを肌で感じましたが、やり続けることで仲間として認められるようになり、その後はずっとレギュラーメンバーでした。授業より、グラウンド上のほうが、英語を勉強したような気がします(笑)。
また、出会った中にはアラブ人だけのサッカーチームがあって、その中に迎えられたこともありました。アラブのチームは作戦などの話し合いがとても長く、文化の違いもおもしろいと思いました。ある時、なぜ私を仲間に入れてくれたのかと尋ねたら、「日本人だから、どこの国の出身だから、チームに入れたんじゃない。おまえだからいいんだ。」と言ってくれた言葉が嬉しく、“個”を認められた思いで、ひとりの人間として自信がつきました。自分をさらけ出すことで、異なる文化を持つ人々にも受け入れられることを身をもって感じ、人生の価値観が変わったような気もします。
また、最終学期にはアートのクラスを受講しました。グラフィックや写真、陶芸など、感性と理論を学ぶことで、眠っていた何かが刺激された時期でもありました。大きな本屋や図書館に行ったりして、たくさんデザインの本を読むことから始まり、格好いいショップや可愛いレストランにも、デザインのヒントがありました。とにかくすべてが不思議で面白く、入ってくる情報を全部吸収する勢いで、滞在期間を楽しんでいました。ほかにも、絵を描いたり、“サタデー・マーケット”という市場で出会った友達にお洒落なスポットに連れていってもらったりと、自由に見て、歩いて、感じられることが新鮮でした。その感性は今に生きていると思います。
まさにフラワーデザイナーの原点はここから始まりました。

 
【20代は修行時代】

アメリカ留学のころ、自分の中で“20代は修業の時期”ということを決めていました。 ですから、20代は実にさまざまなことに積極的にチャレンジしました。
留学を終え、大学卒業後はグラフィックの専門学校にも行き、当時流行の、音に合わせて映像を作る“VJ”の大会に出たり、六本木のクラブで毎週、タトゥーのようなイラストをお客様に描いたり。あるときは、劇団の映像を手伝うことになり、いつのまにか役者として舞台に立ったこともありました。知らない場所に出かけることで、いろいろな人と出会い、人脈も広がっていきました。考え方も年齢も違う人と話すだけで視野が広がりましたし、これらは自分にとっては大きな経験でした。
専門学校での出会いから、グラフィックデザイナーとしてベンチャー系の会社に入り、その後、大阪に住みました。デザイナーで入ったはずが、営業職としてトップにもなれました。絶えずアンテナを張って新しいことを探しながら、人が嫌がる仕事にも積極的に取り組んできたと思います。そんな中、お客様との触れ合いからも、たくさんのことを勉強させてもらいました。お客様に向かって“話す”という経験を積んだことで、相手の立場に立ち、考えて話さないと何も伝わらないんだということがよくわかりましたから。社会人として第一歩を踏み出した時期でした。

 
【フラワーデザイナーへの道】

ご存知の方も多いかと思いますが、私の母は、今野政代といい、現在プリザーブドフラワー界の第一人者といわれる存在です。
母は、ずっと家でお花を教えていましたから、私も小さなころから、お花に囲まれて暮らしていました。当時は、自分が母と一緒に仕事をしようとは夢にも思っていませんでした。
デザインの仕事をしようと決めてアメリカ留学から帰国したとき、デザインに関わる経験として、フラワーデザイナーの資格を取ってみようと思い、初歩の初歩、3級の資格を取りました。その後、徐々にフラワーデザインの世界の奥深さを勉強することにより、日常生活であっても、目に飛び込んでくる世界が変わることに興味が湧いてきたこともまた事実でした。
その後、大阪に住んでから、“日本フラワーデザイナー協会”から連絡があり、展示会があるので出品してみませんかと、お誘いを受けたのです。せっかくなので作品を大阪のデパートに出品して飾っていただきました。初心者が何となくデザインしたもので、特に入賞するわけでもなく、展示会は終了。しかし、作品を搬出しようとしてエレベーターに乗ったら、突然見知らぬ女性から、「これ、あなたが作ったの? 私ね、このデザインが1番好きだったのよ。」と声をかけられたのです。その言葉が本当に心に染みました。初心者の自分がなんとなく作ったお花でも、誰かが喜んでくれると思うと、嬉しくて嬉しくて! その瞬間、私はフラワーデザイナーになろうと決意しました。

そうして、2003年の1月に<ベル・フルール>の事務所を会社にして、私のフラワーデザイン人生がスタートしたのです。最初の2〜3年は、母の息子だからとか親の七光りと気にしていたこともありましたが、そのたびに「俺は今野亮平だ!」と強い気持ちを持って努力し、自分の世界を確立するために歩みを止めませんでした。同時に、仕事のうえで母を見たとき、すごい女性だったんだなと、改めて見直すことができたのも収穫でした。当初の私は母のプロデューサーとして、カメラマンとのやり取りや構成を手伝ったり、イベントを盛り上げたりと、デザイン以外の切り盛りの部分を担当していました。ビジネスを実践で覚えていくことも勉強になりました。
 
【日本フラワーデザイン大賞で1位】


いつも自分は運がいいと思っています。
例えば、2003年に名古屋で開催された、日本で初めてのプリザーブドフラワー展に、ブランドとして出品することができました。その後、さまざまな場所で開催されるイベントやデモンストレーションに、だんだんと呼んでいただけるようになりました。基本的に、最初は母への依頼でしたが、徐々に私の名前も浸透していきました。お花業界に男性は少ないですし、なかなかいないキャラクターだったからかもしれませんが(笑)。
そのような経緯で、“今野亮平”の名前が知られたのは、2006年“日本フラワーデザイン大賞”で、ウインドーディスプレイ部門1位を受賞できたことが大きかったと思います。
“日本フラワーデザイン大賞”への出品はそのときが初めてでしたが、日本一のフラワーデザイナーを決めるコンテストですから、絵コンテだけでも全国から集まってくるわけで、予選を勝ち抜くのもとても大変でした。
予選突破した出品数は400点ほど、強豪ばかりが集まる中、生花で1位を獲得できたことは私の人生で大きな分岐点となりました。
ショップチャンネルへの出演も、そこがきっかけだったように思います。
 
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